白馬岳に登る・2932m・大雪渓、鑓温泉コース Jul 28/29/30/31. 2012 |
・登山口の猿倉・出発 12:48・標高1230m 今回の登山は、ガイドブックの1泊2日コースを、3泊4日に延長し実施した。 それは、初心者と高齢者の転落事故を予防するための戦略である。 NさんのVoxyで豊田市を7:00に出発、白馬村を楽しみ、そばを食べてからの入山となった。 猿倉Pは、土曜日満車が心配されたが、午後の到着で、下山者の空きにすんなりと駐車、 登山届を村営猿倉荘前の届Boxに投函、2.3Km奥の白馬尻小屋を目指した。
小屋に近づくと、大雪渓の冷気が心地よい。 この小屋は、1916(大正5年)に、松沢貞逸(白馬岳山小屋の創始者、1889〜1926)が新設した(以前は岩室のみ)。 以来、登山基地として、現在に至る。標高は、1560mで、文字通り大雪渓の入り口です。
この小屋は、村営の猿倉荘泊、車中泊の登山者の休憩所でもある。 小屋の軒には、沢水で冷やしたビール、ジュース、4本爪の軽アイゼン(1000円)が並ぶ、
猿倉からの距離2.4Km、標高差330m、所要時間1時間23分、歩数よりも口数多く時間がかかるのだ、 ここまでは、大雪渓見物のハイカーも登ってくる。 このベンチの下は、大雪渓の雪解け水がしぶきを上げて流れ、究極の避暑地でもある。
Friendの紹介、
左から、
横浜発のツアー登山者の一行です。女性がほとんどで、ガイドと若干の男性が含まれます。 この直後に、大阪発のツアー登山隊、全員黄色のヘルメットで識別されます。 このようにして、夕食時間の17:00までには多くの登山者がチェックインします。宿泊者数は、1500人/年、 大雪渓からの入山は、14:00以降は、安全面(落石・日没)から禁止されています。
我々は、早めのチェックインで、1号館の入り口近くの桝席に案内され、食事は、夕5:00、朝5:00からの早番となった。
・登山準備・5:51 Friend N は、登山靴による登山は初めてです。もちろん初アイゼンの初雪渓です。 はたして、無事に大雪渓を征服できるか不安がよぎります。
しかし、何事も実体験が重要です。
この広場は、テント場兼集合場所、朝食を済ました登山者が大雪渓を眺め準備し気合を入れる。
Friend Nは、韓国製のワンタッチ6本爪アイゼンを通販でゲット、果して、ワンタッチなるか?
その前に、足、靴下、登山靴 三位一体も心配なのだ、
大雪渓は、全長3.5Km、我々は、ここから約2Km、標高差は約700mを登る。 平均斜度は約20°、登るにつれ急になる。
途中、落石注意の標識が目立つ、雪上の石は総べ落石と掲示版、発見者は、ラックーと叫び周囲の人に知らせよと警告する。 この雪渓は、古くから強力が荷揚げに、1913(大正2年)W.ウエストンもこのルートで2回目の白馬岳を目指し、 現在は、毎年20000人位の登山者が登る。
アイゼン装着から1時間50分です。沢山の女性登山隊に先をゆずり、途中Nさんの靴下がずれて履き直し、締め直しての到着です。
大雪渓を登り切ればホッとしますが、葱平は平らではなく、落石予備軍が群がり、大雪渓上から村営白馬岳頂上宿舎まで3時間の急登なのだ、 この先の小雪渓を渡ると、高山植物の大群落(お花畑)、その横に延々と雪渓が続く、
避難小屋はコンパクトである。土日に風雨にさらられたら全員の収容は困難と思う。
小屋の前には、監視員と”ここはトイレではない”の張り紙、
ご婦人は花を愛で、取材記者は、岩陰のウインチに気付く、 かっての、山頂への資材搬入は、強力と背負い梯子と、このウインチが活躍したのだ、ヘリで3000mまで荷揚げが可能となるのは昭和36年から、 1893(明治26年)陸軍省測量部の一等三角点撰点工事、その後の日本一の山岳ホテル建設の役目を果たした、 このウインチ、発動機とワイヤーケーブルを担ぎ上げた当時の強力の苦労を偲ぶとともに、このウインチは文化遺産として白馬館に展示し、 当時どの様にして荷揚げをしたか後世に伝えてほしいと願う。
多くの花が咲き乱れる、その名前は、植物監視員がボードに書き掲示する、
7/25現、お花畑で見られる花・24種をご覧ください。
ここの、植物群落は、国の特別天然記念物です・・・と
出発から5時間が経過、 この辺りは、かって白馬山荘と村営頂上宿舎の双方の番頭が客引き合戦を演じたというがその様な動きはない。
通路下に、雪渓尻が迫り、パイプから天然の名水が流れる。ボトルに詰めベンチで飲み、休憩、
1938(昭和13年)離山に完成した白馬村営の頂上宿舎の現状です。右奥にテント場も有り、 地元の小中学生の学校登山に今なお利用されていると思う。 この宿舎は、取材記者と同年で、親しみを感じたが、我々は更に上の白馬山荘を目指す。
ここは、白馬山荘のレストラン海抜2832mで、スカイツリー634mの 4.5倍、 チェックイン後、昼食、生ビールにうどん組、私は軽い高山病か、疲れか? 食欲なくビーフカレーを食べ、一服して山頂へ、
このレストランは、通過の登山者も利用OKです。
5名のはずが、何故か3名、健脚2名が小蓮華山方面へ視察に出かけ戻らないのだ、 あまり遅いので、転落事故を心配したが、無事に戻ってきた。山頂で、愛妻に携帯で無事を報告した、 その後、携帯を落としたのに気付き探していたという。携帯は、夕食後に山荘の受付へ無事に届けられた。 山頂には、方位盤がある。その台座3分割したものを1941(昭和16年)の夏に麓から大雪渓を担ぎ上げた男がいた。彼の名は、富士山の金時男の小宮正作、 この話は、後に、新田次郎が著した『強力伝』に登場する風景指示盤の花崗岩台座50貫(187Kg)の巨石を背負って山頂へ挑む姿を描いた、 強力伝は、昭和30年に第34回直木賞受賞、
その360°方位盤(銅製)も、現在は、70年の風雪によりすり減って73歳の老眼では山名はほとんど判読できない。
1907(明治40年)18歳で白馬岳山頂に初めて山小屋を建てた、松沢貞逸氏を偲び、彼の功績を称える記念碑、
1200人を収容するという山荘の受付玄関前、 左が富山県、右が長野県で、所得税は両県に支払う。 山岳ホテル敷地は、6622uで、白馬国有林の借地許可を得て、営業し、その国有林野貸付許可標識がホールに掲示される。
山荘の管理人は、年間の宿泊者数は、12000〜13000人、昭和30〜40年代はもっと多かったという。
このようなベンチで、周辺の山岳風景を雲間に眺め至福の一時を過ごす。 これは、2&3号館、我々は昨日予約しましたが、2号館の3階の蒸し暑い屋根裏の1坪程の桝席N0.9とNo.15を指定される。 2畳に3人と2人となり悩ましい。 ガスが吹き上げる、明日の天候を期待しよう、
800人収容(以前は1200人)の山荘の概要をコメントします。 受付玄関の右奥に長大な1号館、左に長大な2,3号館、右手前が頂上レストラン スカイプラザ白馬 長大な2,3号館の奥に食堂、入口に資料記念室兼お土産コーナー、 安全面では、昭和9年に、昭和医専が開業したという伝統の診療所が健在、 フロントの受付横には、天気予報デスクもあり、明日の天気をコメントしてくれる。
昨日(7/28)の土曜日は満員で、桝席に4人(1畳に2人相当)寝かされ寝れなかったという苦情を複数回聞いた。
従って、桝席に枕が4つ置いてあるので、ピーク時1桝4人状態と思われる。また、個室の特別室が若干有り予約が必要、
・ご来光 5:14 山荘少し上のビューポイントへ、日出時刻の4:51、小蓮華山右肩から神秘的なご來迎、
5:14まで粘って、朝食へ、
5:00の朝食時間と重なり、皆さんこのあたりで撮影したようです。
後方のピークは、白馬岳、
山荘上での來迎後、旭に浮かぶ杓子と鑓を眺めつつ、朝食会場へ急ぐ、
山荘前の丸山の遥か南西に剣岳2998mの尖塔が浮かぶ、
天候は、快晴無風
険しそうなルート、果たして無事に越せるか?
昨日登った大雪渓と小雪渓
蟻の行列はまばらのようだ、
お花畑のテラスから白馬岳を背に、
大雪渓からガスが湧く、その上空に栂池スカイラインの嶺
杓子沢の雪渓からガスが上がる、 杓子岳を背に山頂を目指すFriend N とサポートする超健脚、
視界は徐々に悪くなった、
砂礫の尾根が続く、白雲の下は雪渓のようだ、
白馬山荘を出発してから4時間が経過、 分岐を左折して鑓温泉を目指す。
一帯は残雪多し、
右手の稜線に天狗の小屋と頭、
実は赤いが花は白い
花の名は、チングルマ?、その奥は杓子沢の大雪渓?
温泉ルートは、この先、険しい下りが続く、雪解け水が滴る鎖場,ハシゴの連続となる。
厳しい下りに耐えての待望の温泉です。12時頃になんとか無事に到着しました。 昼食後、温泉取材と思っていたら、テレビ東京が既に取材中で、我々を取材するという。 この写真は、右端のカメラでテレビ東京が我々を取材中のシーンです。
この取材番組は、8月18日(土)19:00から全国ネットの長時間番組で放映するという。中京地区は愛知テレビ、ひょっとしたら、
このような映像が一コマ映るかも、この後、視聴率アップ策で、水着姿の女性が入浴、インタビューはその女性に集中した。
よって、我々はカットされるかも? 我々は、向って左翼のこの小屋の上階の桝席を指定された、寝るには不自由はないが、天井が低く、更に、カモイは一層低く、 私は、動く度に頭をぶつけた。出血するほどぶつけても自力で止血し我慢する。しかし、温泉に入ると、止血膜は緩み鮮血が噴出した。 4000人/年の宿泊者が痛い目に遭う。 このような山小屋は、日本の常識ですが、(株)白馬館の100年の歴史を考えると、安全面についてもそろそろ進化があってもよいと思う。
小屋は積雪期は分解し、雪解けをまって組み立てるというから、贅沢を言うなとの叱責覚悟だ、
私は、小屋に泊まるたびに、発砲スチロールを持参し両面テープで張り付けてから桝席へ侵入すればよかったと反省する。
日本人の身長も100年前より伸びた、伝統ある白馬館なら、来季より、全山小屋に私の提案を採用されることを切望する。
・朝風呂・ 5:37 この露天風呂は、24時間OKです。その湯は、岩壁から噴出する48°の源泉を取り込み垂れ流す、”源泉直噴垂れ流しの秘湯”です。 写真左の岩の割れ目から吹き出す湯は1cmのパイプも使わない。 食堂の後ろの岩壁側にも源泉があり、覗いてみると、岩盤の割れ目が源泉で、その下に凹みを作りパイプを無造作の置き、 ご婦人用、足湯用に傾斜を利用して垂れ流す。 Friend N は絶賛する。真夜中に出かけたら、若い女性に遭遇し、そっと浸かって満天の星と天の川を2人でじっと眺めたという。 また、5時ごろに入り、湯中のご来迎も素晴らしい。
岩風呂の下がテント場で、そばに足湯も、小屋横に水場もトイレもある。
大感激のFriend S と 鑓温泉
垂れ流しの湯は、下山道と共に急降下し、直下の大雪渓へ消える。
猿倉への直行下山組には便利と思うが、一泊しての露天風呂がお奨めだ、
山岳取材は、屈強な若者を含む数名で編成する、先輩から資材を40Kgも担げと指示され参ったいう。
このような場所でのテント泊は、頭部打撲も起きないので快適と思う。したがって、若者はテント泊を好む、
温泉効果で熟睡し、生き返り、5時からの朝食、朝風呂を済ませ、険しい下山に備えました。
とりわけ、Friend N の温泉効果は絶大で、見違えるように元気になった。
直下の雪渓まで下り、振り向くとご覧の温泉立地風景です。
小屋の情報で、早朝に落雷のごとき轟音がした。それは、雪渓が崩落したのだという。
その場所が、ここかどうかは定かでないが、もし、我々がこの上を歩いていたら雪渓下の激流にながされ永遠に行方不明となったと思う。
雪渓は長大です。アイゼンを装着し、踏み跡を吟味し慎重な下山となった。
雪渓を下り、急峻な尾根を登り、下り、雪渓を渡り、また昇りを繰り返す、その先の落石沢を通過し、崩れ沢をしのぎ、 苦難の下山が続いた。
一帯は危険なため写真の撮影は、以後暫く中止した。
下山開始から2時間30分が経過するも標高は1824m、僅か(276m)しか下っていない、 杓子沢の数々の尾根と沢をトラバースしても標高は稼げない。
小日向のコルは、距離にして猿倉までの中間点である。
しばらく、快適な下山道が続いた、風景を楽しむ余裕がでた。
ニッコウキスゲが咲き、湿原には巨大な水芭蕉が育つ、
尾根の向こうは、白馬の大雪渓です、強い日差しは雪渓を照らし、白雲となる。
その雲間に時々栂池スカイラインの尾根が覗く、
ダケカンバは尾根筋に生き延びる。その分けは、沢筋は雪崩があり、成木に至らないと想像する。
白馬登山道の鑓温泉分岐に無事に下山しました。 ここから15分程で猿倉荘です。 白馬三山の縦走は困難が予想されましたが、Friend の協力のお蔭で達成できました。 Friend の皆さんありがとう。
3日前に登山届を提出した村営の猿倉荘です。 山荘の方に無事下山を告げ、猿倉Pで登山靴を脱ぎ、白馬村の温泉へ直行、
白馬岳登山の歴史は、『白馬岳の百年・近代登山発祥の地と最初の山小屋』菊地俊朗著、山と渓谷社 で色濃く伝えられ、 ・”白馬登山御案内所” 7.31.14:19 旧山木(屋号)旅館は、駅前通りの郵便局の前に現存する。訪ねると、”白馬登山御案内所”木札が往時を偲ばせる。 旧山木旅館の奥には、松沢家のお屋敷があり、高級車のご婦人がお出かけした。 更に、裏側へ回ると、白馬の峰々を一望するすばらしい環境であった。 ここで育った松沢貞逸は、少年期から接する登山家、植物学者の影響を受けて、 自宅から見通せる白馬岳山頂に小屋を建てたくなったと思う。
明治から大正にかけて、日本の近代登山の黎明期にW,ウエストン他の著名な登山家、植物学者が宿泊し,
村人がガイドを務めた。
明治38年、松沢貞逸は、気が狂ったといわれながら、白馬山頂近くに山小屋の橋頭保を得て、少しずつ石室を整備していたが、 同40年の宿泊者は、四十、五十人に過ぎなかった。 しかし、『白馬に山小屋ができた』という情報が全国に広まるにつれ夏山の登山者は ネズミ算的増えていった。大正4年夏には4000人に達し溢れた、・・・・ ウエストンも、大正2年に大雪渓から登ったので、この小屋泊と思う。 取材記者コメント
近年の白馬山荘の年間宿泊者数を、管理人さんに聞いたら、12000から13000人/年ですが、
昭和30から40年代のバブル期はもっと多かったという。
登山時期は、1916(大正5年)の夏です。装備は、麦藁帽子、蓑傘に金剛杖、 白馬山頂小屋ができて10年後、長野高女が女性登山の先駆者か?
白馬尻小屋は、1916(大正5年)に開設、松沢貞逸27歳、
1934(昭和9年)に完成、このころ、白馬岳登山者は爆発的に増加していたと思われる。
夏季の診療所は、現在の昭和医科大学に受け継がれ、村営山頂宿舎内の2か所で現在も運営される。 下山時に、鑓温泉の湯船で、昭和医科大学6年生に出会ったので、どんな病人が来るか聴いてみた。 最も多いのは、頭痛、吐き気の高山病であるという。
彼は、医師国家試験の1次試験に合格したので、下山し2次試験に備えるといい、 高山病予防の注意事項を語った。 雪渓を登ってくる登山者は、疲れ果て、チェックイン後すぐに寝る人がいる。すると、呼吸が浅くなり 酸欠は回復しない。到着後は夕食までは寝ないで、十分に腹式呼吸をしながらくつろいでほしいといった。
1938(昭和13年)に完成したので、私と同級生です。 当時、山頂エリアに二つの山荘が出現し、以来、山小屋合戦、確執の半世紀が始まったという。 今回登ってみると、両者の客引きもなく、その後の紳士協定が実を結んだようだ、 また、近年の登山者減少傾向もあり今後の山荘経営のありようが問われると思う。
白馬村は、白馬岳登山に始まり、八方尾根と栂池高原の壮大なスキー場開発を得て、 長野オリンピックの会場にもなり、HAKUBA の名は世界に流れ大きく発展した。
私は、昭和30年代に名古屋からの夜行列車で、信濃四谷駅に早朝に到着し、細野の民宿で仮眠し、スキーを担いで八方尾根へ
上がった時を思い出す。当時の面影は何一つなかった。
貨車で到着した記憶はないが、当時の世相が懐かしい。
マンホールには、白馬三山のイラスト、 立派なオリンピック道路を少し走り、ジャンプ台、ソバどころを巡った、民宿はホテルとなり、 かってのスキーブームを思う。夏場のアウトドアーの好機であったが、観光客はまばら、 登山者は、中高年の女性が頑張るが、若者は減少傾向が続き、量の時代は終わったように思える。
スロープの着地地点に放水しながら、夏季の訓練の最中、ジャンパーは豪快だ! 観光客が次々に訪れて拍手する。
松沢家奥の広場からの眺め、白馬岳はじめ飛騨山脈北端の多くの名峰を一望できる。
この峰々の風景は、100年前と変わらない。
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