長野県下高井郡山ノ内町
思い出の 志賀高原巡り と 万座の湯
Aug 23.24. 2014

志賀高原スキー場風景・東館山山頂より

志賀高原は、我が国有数のスキーリゾートである。

この度、”JA2TKO 夏山旅 2014” で、”草津本白根山ハイキング”を計画、 そこへのアクセス日を活用し、半世紀余前の青春スキー時代の思い出を辿り、同級生と 山Friend を誘い志賀高原の高嶺(東館山2030m、横手山2307m)へ上がる機会を得た。

同年代の方々は、志賀高原でスキーを始め、それぞれに楽しい思い出があると思う。

後期高齢者2年目の取材記者は、当時の様々な出来事を思い出せるか? 脳力のほどを、確かめるためでもある。 それでは、同級生と賑やかな山 Friend と共に巡った志賀高原の夏をお楽しみ下さい。

この取材記は、 青春時代に行動を共にした、スキー仲間と、
同年代に丸池すきー場で家族で初スキーをしたという小学校時代の恩師にも報告させていただきます。

写真説明、
青春の思い出、東館山より、発哺、高天原スキー場(左に延びるスロープは蓮池方面へのロープウエイ?)の眺め、
8月23日12:54 Nさん撮影、


コース案内:

@志賀高原自然歩道 A東館山マップ B横手山マップ



・・・ 思い出の志賀高原巡り ・・・



・丸池スキー場・11:20

取材記者は、S34.1(1959.1)の正月休みに、会社のスキー学校に参加して”丸池スキー場”で人生初めてのスキーを楽しんだ。

55年後の今、豊田市から約5時間、信州中野IC経由で、そのスキー場の前に車を止めた。

スキー場前の情景は全く別世界で、浦島太郎のようであった。当時のホテル、丸池スキー旅館などは全くない。

場所違いか? しかし、スキー場を眺め、当時のリフト、A,B,Cコースのスロープから、初スキーの情景が少しづつよみがえる。

志賀高原自然歩道の掲示板をみると、場所は間違いないが、当時の志賀高原ホテル、丸池スキーハウス、スキー旅館などはなく、 そこには、志賀高原歴史記念館と志賀高原猪谷記念館が建つ、

この半世紀、マイカー時代の進展、長野冬期オリンピック、バブル期のホテルの建設ラッシュ、 その後、スキーブームの終焉を迎え、現在がある。

丸池スキー場の懐かしいホテルや旅館などはバブル崩壊と共に消え去ったようだ。

・志賀高原歴史記念館・14:15 入館

ここは、志賀高原の入り口と思う。

我々の青春時代は、名古屋から夜行列車での過密スケジュール、 ただただ滑りまくる、したがって、志賀高原の理解もない。

この建物は、旧志賀高原ホテルの玄関(ホール&会議室)で、H19年に、近代産業遺産に登録された。

我々を迎えた、同年輩の館長は、志賀高原の開発はS2年から始まり、 志賀高原ホテル(S12.1.1開業)は国策ホテルという。県下では、志賀高原、上高地、野尻湖に建設され、唯一現存する 施設と自慢する。

館長の熱弁は、下記のHPから想像くださいね。

関連情報:

・志賀高原歴史記念館

・志賀高原スキー場の歴史



・トニー・ザイラー/Auton Sailer ・ 14:25

記念館入ると、当時の大きな暖炉とホールに積まれた薪の山が出迎える。

ドイツ人設計の本格的スキーホテルの玄関ホールには、 志賀高原開発当初(S2年頃)からのスキー道具、往時の写真などが展示される。

トニー・ザイラーと鰐口晴子の写真もあり青春時代が懐かしい。

彼は、1950年代のアルペンスキーの名手、56年のコルティナダンペツォ オリンピックのスキー三冠王、
彼は、1935年生まれ、2009年73歳で逝去、悲しく思う。

白銀は招くよ でデビュー、銀嶺の王者 では、バイリンガルの鰐淵晴子と共演、何とも懐かしい。

・1960年、銀嶺の王者 トニー・ザイラーの滑り



丸池スキー場回想 S34.1 編集者撮影

この写真は、55年前の丸池スキー場です。

当時も、このリフトで上がり、このスロープがAコース(上級者向き)、この奥から左に降りるBコース(中級),Cコース(初級)がある。

これらのコースは現在も変わらず健在であった。

S34.1スキー学校に初参加の編集者、

ホテルの裏山の練習コースで、午前中、スキー部OBの特訓、

後方は丸池、

午後、写真のAコースに挑戦し雪だるま体験、

ウエアーは、日本海軍の神風特攻隊スタイル、

スキー板は、会社の体育館から借りた。カメラは、小型のコニレットを持参した。

・東館山ゴンドラ・11:53

取材記者は、往時、東館山の上から滑った体験がある。

たぶん山頂へのアクセスは、 蓮池からの発哺線リフト経由?でここまで来たか?、アゴが凍る早朝に並んでゴンドラに乗った記憶を思い出す。

調べると、東館山空中ケーブルは、1960年開業、よって、開業直後に乗ったようだ、



・ゴンドラからの眺め ・12:18

眼下は、東館山スキー場、ここを滑ったとは思えない。

当時は、細い林道をくねくね滑ったことが思い出された。



・高天原スキー場 ・12:19

山頂から、右手のゲレンデが高天原スキー場、

その後に、建設したと思われるリフトが2基並ぶ。



・東館山登頂記念 ・12:33

山頂には、山野草植物園と大きなレストハウス、

そこの、展望テラスから、志賀高原を俯瞰し、弁当を食べる。

心配した天候も、晴れ間も出て、一同良かった、良かった。

標高は、2030m, 志賀高原のスキー場と、名峰笠岳、志賀山を確認する。



・志賀高原俯瞰 ・12:54 Nさん撮影

左端のコブが、笠岳か?

夏の志賀高原で、往時のスキー場を思い出すのは至難の業、

高原の冷気、素晴らしい風景、開発は進んだが、志賀山などのハイキングコースがハイカーを誘う。

・長野冬季オリンピックメモリアル ・13:02

山野草園地を巡り、少し下ると記念の小屋、

1998年の長野冬期オリンピックでのアルペン競技(大回転)のスタート地点を記念する。

・コマクサ・13:18 ・Nさん撮影

取材記者は、半世紀前の記憶がままならず。

山野草を眺める余裕はない。



・リフトで下山 ・13:22

時間の都合もあり、リフトに揺られて下山、

鉄塔には、平成9年(1996)建設の文字、



・スカイレーターで、横手山へ ・15:52

R292を進み、『横手山のぞき』へ、そこは志賀高原のビューポイントで、夏場も観光客が絶えない。

理由は、雪解けを待って動き出すこのスカイレーターだ、

ここを通る観光客は、老若男女このベルトコンベアーに乗りたがる。

乗ったお客は、上で待ち構えるスキーリフト載せられ、アッという間に志賀高原の展望台へ、



・スカイレーター ・15:06

スカイレーターは、S42.7竣工というので初体験だ、1基しかない。下りは徒歩か?その心配はすぐに消えた。

我々が到着した時、集団が登った、係員は、下山集団が降りてきたら、登れるという。 一基での、上り、下り交互運行なのだ、

その構造は、ゴルフ場のコース間移動用のベルトコンベアーと同じです。このベルトには約2m間隔に〇印付けられ、乗客を丸の上に立たせ、 荷重を分散させ一度に20人位を運ぶ。

全長200mで、設置角度14°30′、5分間で50m(35m?)上げる。

・スカイレーター仕様

・料金表



・横手山 ・15:25

横手山山頂は、ご覧の風景で、大きなレストハウスとパラボラアンテナ。

業務関係者は、車で上がり、観光客はスカイレーター、スキー客はリフトで上げる。



・横手山山頂 ・15:28

レストハウスのテラスが、展望台、

文字通りの雲の上の世界だ、ここからは、360度の大展望が可能、南北アルプスから富士山までの展望絵図が設置される。

・展望写真 ・15:28

今回は、このような掲示写真で我慢しよう。

横手山の山体は、ウイキペヂアによると、『南側と西側が急斜面をなし、北側と東側は比較的なだらかな傾斜を持つ非対称の形をしている。

長野県側の志賀高原は観光地としての開発が進んでおり、群馬県側の草津温泉、万座温泉と国道292号で結ばれている。

この国道は横手山の南に位置する渋峠で中央分水界を超えており、この地点が全国の国道の最高地点となっている。

これにともない、横手山も、スキー場、リフト設備などによる観光開発が進んでおり、夏冬を問わず、手軽に登れる山となっている』と記述される。

これより、渋峠を越えて、万座温泉へ、





・・・ 万 座 の 湯 ・・・



・万座温泉観光センター

R292の山岳ドライブはNさんが得意とするところ、スリルもあり、景色も素晴らしい。

途中の日本国道最高地点 2172m には立派な記念碑、 そこからの草津白根山域の眺めも素晴らしい。

草津と万座への分岐点を右折すると間もなく、観光センターの看板だ。万座の源泉『湯畑』、 空吹などの展望台訪問客の駐車場’バスターミナル)、トイレなど完備、

万座温泉は、標高2160m 白根山の南西麓に位置し、温泉地としては日本でも有数の高地で標高は1800m、源泉は18か所、湯温は80度、

・万座温泉周辺ガイドマップ

・万座温泉説明版



・万座温泉の湯畑(ゆばたけ)・18:00

源泉への散策道を巡ると、湯畑を見下ろす。奥の小屋から温泉送湯ポンプでホテルなどへ、



・空吹き ・8:02

翌朝の見晴らし台散策時に撮影、年中蒸気が吹き上げるようだ、

源泉ルートを巡る約30分位の散歩コースを楽しむ。





・宿泊記念 ・8/24 7:44

万座の湯を楽しんだ一行、

湯自慢のホテルは、沢山の湯を設け、更に、系列ホテルの湯めぐりもOK、山の上の露天風呂もOK, ぐるぐる廻ってからの夕食となった。

翌朝の天候は晴れ、足慣らしで湯畑巡りの展望コースを散策し、全員にこにこ状態で草津本白根山ハイキングに出かけた。

この続きは、次ページの『草津本白根山ハイキングと草津温泉』をご覧くださいね。



《取材メモ》

青春の楽しい思い出を回想すれば、脳細胞の活性化に役立つか?その期待を求めて志賀高原半日取材を楽しんだ。

初スキーの情景は見事に蘇ったが、その後、再々で出かけたプライベートスキーの行動はほとんど思い出せず。ただただきょろきょろするのみで、 肝心の写真もほとんど撮れなかった。事前の予習もなく出かけたので、気付くのが遅くなんともならない。

@志賀高原へのアクセス

当時、どのようにして丸池スキー場へ行ったか?

年末、年始のスキー学校は、会社のバスで名古屋駅へ、名古屋から中央線の夜行列車で長野まで、その後がなかなか思い出せなかったが、 この度、現地を訪ね、道路標識の左、長野電鉄・湯田中駅の標識を見て、少しづつ蘇ってきた。

長野駅前で、うろうろしたこと、長野電鉄で湯田中へ、そこからバスで丸池スキー場へ、一休みして、 すぐさまスキー学校が始まったこと、スキー部のOBが見事な直滑降の模範演技を見せ、 このように滑れと言った先輩の顔がありありと思いだされた。

A丸池スキーハウス?志賀高原ホテル?丸池のスキー旅館?

何処に泊ったか?どうしても思い出せない。帰宅後、当時のスキーアルバムをめくると、 宿舎の前での記念写真のバックに、『長野電鉄直営・旅館 丸池スキー???』の宿の看板が写っている。 それは、長野電鉄直営の『丸池スキーハウス』か?

ウキペディアで調べると 

1930年(昭和5年)12月10日 - 前年から始まった長野電鉄の志賀高原開発により、丸池にスキー宿泊所開設
1935年(昭和10年) - 長野電鉄創業者・神津藤平が、丸池に「神津コテージ」を建てる
1946年(昭和21年)6月30日 - 丸池一帯が進駐軍に接収される
1948年(昭和23年) - のちに日本初の冬季五輪メダリストとなる猪谷千春の一家が、神津コテージに移住
1952年(昭和27年)12月23日 - 10月に進駐軍の接収が解除され、丸池スキーハウス開館
1966年(昭和41年)12月20日 - 全面改築
1967年(昭和42年)5月20日 - 丸池観光ホテルに改称
1969年(昭和44年) - 第2期改築。四川料理「志賀飯店」開店
1972年(昭和47年)9月19日 - 政府登録国際観光旅館に認定
1980年(昭和55年) - 1・2階改装
1985年(昭和60年)11月21日 - 3・4階改装
1988年(昭和63年)8月6日 - 神津コテージを改修し、猪谷記念館を開設
1991年(平成3年)11月29日 - 西館改装(全室洋室化)
2010年(平成22年) 3月11日 - 株式会社丸池観光ホテル設立。長野電鉄からホテルの運営を移管される
5月31日 - 閉館。施設は猪谷記念館を残し解体
8月5日 - (株)丸池観光ホテル、解散

我々男性は畳の部屋での雑魚寝であったので、米軍が接収したホテルとも思えない、 しかし、会社の健康保険組合主催の大勢のスキー学校です。

当時、一般のスキー旅館で大勢泊れたか?の疑問が残ります。 どなたか、ご存知でしたらお知らせくださいね。

Bスキーのアルバム

編集者は、S34.1からスキーへの招待 という写真アルバムを三冊保存しています。 この度の取材で、ほとんど記憶がなかったので、帰宅後、アルバムをめくった。

孫も成長した現在、アルバムを見ることもいない。めくってみるといろいろと思いだされる。

そこには、数年間の青春スキーの足跡が記録される。志賀高原を振り出しに、赤倉温泉スキー場、 後半は、八方尾根を楽しみ、最終は八方尾根の第一ケルンからの滑降(冒険)を試みた。よく無事であったと思う。

そして、大反省です。出発前にアルバムを見て出かければ、取材力は格段にアップしたと思われた。 現地での、写真撮影、質問事項のポイントが定まると思えた。何事も予習が大切のようだ。

  膨大な、人生のアルバムは、こらからが役立つかも、暫く捨てずに、時々見よう。

C志賀高原の開発と謂れ

志賀高原歴史記念館の玄関ホールの掲示される『志賀高原のあゆみ』の抜粋、


《JA2TKO山川柳》

”丸池の ホテルは何処 記念館 ” ・・・ 取材力衰える編集者

”米兵を 乗せたリフトで 初スキー ” ・・・ 取材力衰える編集者

《関連サイト》

志賀高原・ウキペディア




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