長野県安曇野市
燕岳に登る・2763m・中房温泉コース
Aug 28/29/30. 2011

燕山荘と燕岳風景

燕岳は、北アルプスの女王と、アルピニストは称える。 そこは、北アルプス表銀座、槍ヶ岳への縦走路の起点でもあり、近年は、山ガール憧れの山域である。

取材記者は、かって、小学校の国語の教科書にあった紀行文 『燕岳に登る』のかすかな思いを辿る山旅を計画し、 Friend3名と共に、天候の回復を待って懸案の燕岳に登った。

このたび、安曇野を訪ね、昭和17年当時の松本の小学6年生は、国鉄有明駅から20Kmの山道を沢沿いに歩き、 中房温泉に宿泊、翌日は寛ぎ、その翌朝午前2時から懐中電灯を頼りに登ったことを知る。

それでは、準後期高齢者が賑やかなFriendと共に登った、平成版の『燕岳に登る』を編集し皆さんへお届けします。 お楽しみ下さい。

この取材記は、 私の小学校時代の恩師へ報告させていただきます。 そして、同年代の方々の燕岳登山の参考になることを願っています。

写真説明、
山小屋開設90周年を迎え、朝陽にあかるむ”燕山荘と燕岳” 山荘奥の荷揚げ用ヘリポートから、8月29日5:32撮影、


@コース案内: コースマップ コース断面図
A登山口:中房温泉・1462m
B総所要時間: 26時間48分(入山から下山までの休憩宿泊総時間)/往復13Km(標識)・標高差±1308m


第1日 8/29: 中房温泉〜燕山荘泊 2704m


・中房温泉・出発 6:14・標高1462m

今回は、NさんのVoxyで豊田市を7:00に出発、松本城では ボランティアガイドから説明を受け、城下を巡り、”TV放映中の 『おひさま』安曇野界隈”穂高駅&穂高神社”を散策し前泊、

すぐ下の登山口には、中房温泉の登山者用外湯がある、登山届を入れて入山、

アクセスは、マイカーがお勧めですが、穂高駅からシャトルバス(2000円)が出る。 当日同行の縦走パーティー若者5人組は、豊科IC近くからタクシーで駆けつけた。

中房温泉は秘湯で有名です、
ここでは割愛するが、末尾の《取材メモ》にコメントします。



・中房温泉の夜明け・ 6:20

中房川上流の谷は深い、Friend Kは、真夜中に松本城主が入ったという、迷路の奥の奥の怪しげな”御座の湯”に入り、 外へ出たら満点の星で、安心して寝たという。

私は、朝風呂のあと、おいしい温泉宿の朝食を済ませ、7:00に出発しようと思って予約した。 現実は、前夜、朝食用のおにぎりを渡され、明朝は、好きな時間に出発せよという。登山者に朝食を出す気配は全くなかった。 忙しい登山者が、そうさせたかも?

・登山口・1462m 6:35

入山記念、右からFriend S.K,N and 取材記者、

右横に登山届箱がある。後の小屋は、登山者用温泉、源泉垂れ流しのぬるぬる湯(700円)下山後が楽しみだ、

昔の小学生は、中房温泉の中庭から吊り橋を渡り、4時間かけて合戦小屋まで登ったという。 その吊り橋は、見当たらないが、現在は合戦橋(車道)を渡り登山口へ。 さて、我々はどうなるか?

・カラマツ林 7:06

急坂をFiend Nのペースでかなりゆっくり登った、沢の音は聞こえるが、樹木が高く温泉宿を見下ろすことはなかった。



・第2ベンチ・1842m 7:44

山も道ずれ、テント泊重装備5人組と一歩一歩登る。

彼女が背を曲げて担ぐバックの重さが気になり、持ち上げてみた。立つのもやっとでふらついた。 労働基準法で定める20Kgをはるかにオーバーしていると思えた。 男性に中身を聞くと、自分のバックは更に相当量の缶ビールも水も含むという。

自分のバックを担ぐとカラのようであった。

・登山道・9:51

登山道は整備されているが、急である、彼女は背を曲げ一歩一歩上がる。はたして、槍ヶ岳経由で上高地まで歩き続けるか?

彼女に日頃のトレーニングを聞くと、通勤に自転車を使っているという。 4名の若者が付いているので高齢者が心配することはないのだ!

登山道の前半は、トウヒ、モミ、ツガ、マツなどの原生林が日除けになりありがたい。

・元気の出る標識 10:44

時計を見ると4時間9分が経過している、昔の小学生は4時間で合戦小屋に到着したという。

我々は、行き交う登山者との対話が多いのだ。引き分けとしよう。



・合戦小屋・約2400m 10:52

近年この小屋の名物は、スイカであるが、

食べる前に ”合戦小屋の名前の由来”を確認した。

ここは、休憩所であり、宿泊はできない。また、ここまでは荷揚げ用のケーブルがあり、 当日は軽油のドラム缶(発電機の燃料)をかごから降ろしていた。ここから、燕山荘へ担いで上がることもあるという。



・スイカ売り・11:06

合戦小屋でスイカ、昔の小学生が聞いたら飛び上がって喜んだと思う。

彼女は、東京からアルバイトできたという、松本名産の日本一おいしい『波田のスイカ』を、八等分し、登山者に提供する。 最近は、そのハーフカット(400円)もあり、ほとんどの登山者が味い、喜ぶ。

何故、ここでスイカを売るようになったか?、後で、燕山荘の三代目社長 赤沼健至氏に聞くと、 ここで働く従業員の登山者への思いが出発点という。山中で最高のスイカを、提案者と荷揚げケーブルのお蔭ですね。

提案者は、今頃、東京で実業家かも?

・ナナカマド 10:58

合戦小屋の周辺を彩ります。



・ミヤマシシドウ 10:58

ナナカマドの隣には花火のようナ大きな花です。 Nさんの調査で名前が判明、



・尾根の上の様子 11:46

ダケカンバやナナカマドが多くなる。展望が開けるころだがガスが上がる。 緩やかな登りもあり歩が進む

背後に、有明山が聳えるというが、ガスが覆う。



・合戦沢の頭・三角点 11:53

尾根の上に出た。広場の中央に二等三角点があり、周囲には休憩ベンチがある。 晴れていれば、ここから燕岳の絶頂が見えるのだが、今日は何も見えない。

この情景は、紀行文と同じだ、

Friend Sが、休憩中のご婦人に尋ねる。
彼女は、北アルプス縦走の夢を抱き、九州から娘と二人で新幹線できたという。 装備は、小屋泊まりでシンプルだが、何か月も調べ、準備したようだ。コースを聞くと、槍ヶ岳までという。

このコースは、山ガールの登竜門?



・ダケカンバ 12:39

登山者が和む見事な枝ぶり、ナナカマドの赤い実、



・ダケカンバ 12:47

戦前の紀行文は、この樹林を草紙樺(そうしかんば)という。

この地の小中学生は、戦前戦後を通してこの樹林帯を眺め、感動し、人生を送る。 今回出会った学校登山は、いづれも中学2年生であった。



・燕山荘着 13:08

入山からの所要時間は6時間33分(ガイドブックの歩行時間4時間55分)であった、一帯はガスが覆い展望はなかった。

昼食は未だである、さっそくチェックインし、山荘の食堂で天ぷらうどんを食べた。おいしかった。



・燕山荘到着記念 14:06

昼食後、広場へ出ると、抜きつ抜かれつで登ってきた山ガールに遭遇、

燕山荘は、泊まってみたい山小屋No.1である。来訪者は、予約なしでも全員宿泊OKです。

私が、過去に泊まった山小屋はサービス劣悪であった、しかし、ここはチェックインしただけですばらしいと思った。

夕食も、生ビールもおいしかった、ご飯も味噌汁もお代わりOKです。 夕食後は、食堂を開放し、7:20から 社長自らのホルン吹奏、体験豊富な山のお話があり、宿泊者全員が楽しんだ。

・燕岳出現 18:27

夕食後、ガスが流れ始め待望の北アルプスの女王が現れた。

Friend Kは、山荘のスリッパで絶頂のオベリスクの下まで下見に出かけた。

明日の天候を期待しよう、





第2日 8/30: 燕山荘・山頂・中房温泉へ下山


・朝焼け 5:10 Nさん撮影

3時頃外へ出ると、満天の星と天の川が輝く、その星空撮影をデジカメの星空モードで初トライ、 ASA感度1800,露出時間15secと30secで2度チャレンジしたが見事に失敗した。

朝食前に、山頂へ出かける人、小屋の周りで眺める人、ヘリポートに上がる人、思い思いに感動します。 燕山荘の周回路を巡れば、360°の感動です。



・ご来光 5:16 Nさん撮影

中学生の団体ががヘリポートで歓声を上げ、先生が懸命に写真を撮ります。 少年期の燕岳の感動は、人生の宝です。

このようにして学校登山は代々受け継がれていました。

・槍ヶ岳 5:29

南西に槍ヶ岳があかるみ、その左はに穂高の峰々が浮かびます。

ヘリポートからは、雲海の彼方に南アルプス、富士山、中央アルプスを遠望します。 燕山荘もアルプス展望台でした。

・燕岳 5:35

朝食前の北アルプスの女王です。



・イルカ岩 6:24

燕山荘の朝食は、有明山を眺め、おいしくいただいた。我々は、カメラのみ持って山頂へ、

砂礫の道を少し下がり、花崗岩の岩塔の間をのびのび歩く、いろいろな名前の奇岩、緑のハイマツと白砂、 青い空、アルプスの峰々を楽しみながら山頂へ、


・登頂記念 6:38

女王の絶頂に立つ、山頂からの展望は素晴らしい。北燕岳をバックにポーズをとる。 Friend Sは、年賀状の写真が撮れたと喜ぶ、




・北燕岳&立山連峰 6:51 Nさん撮影

北燕岳の背後に、立山連峰、その右の先鋭な山容は鹿島槍ヶ岳?、どこを見ても素晴らい。




・燕山荘 7:02

山頂からのアップです。

燕山荘は、今年90周年を迎えた。初代は、赤沼千尋氏、二代目は、息子の赤沼淳夫氏(山岳写真家で有名)、 三代目が現社長の赤沼健至氏60歳(数々の山荘経営&登山家)で、代々近代登山の発展に大きく貢献している。

山荘の本館は、昭和10〜12年に建設、木材は、合戦尾根のトウヒを切り出し、すべての資材は担いで上げた、その後リフレッシュはしたが 原型は当時のまま、素晴らしい作りです。その後ろに続くのは新館、新新館、その左がヘリポート。

山荘は、登山道を整備し、340m下から湧水をポンプアップし、冬季も営業し登山者の安全を気遣う。




・コマクサ 7:37

山頂から少し下ると、砂礫帯の急な斜面が谷へ落ちる。砂礫には無数のコマクサが点在し、夏の終わりを告げていた。




・コーヒーブレーク 8:18
燕山荘の社長に宿泊のお礼お言い、別れを告げる。

《アクシデント》
テラス前のベンチで、有明山を眺めながらコーヒーを飲むことになった。

きっかけは、夕食で私の隣席の京都から来た青年(26歳)と親しくなった。全員で記念の写真を撮ろうと、 ベンチの奥側に一列に座った瞬間にベンチもろとも全員でひっくり返りコーヒーを浴びカップは砕け大爆笑、

幸い怪我はなかったが、Nさんのデジカメにコーヒーが侵入し撮影不能となった。 コーヒーカウンターの女性は、再びコーヒーを入れて運んでくれた、ありがとう。

立派な大きなベンチであったが、接地面が小屋側に傾斜していた。そこへお客が集中し転倒の条件が揃ったのだ。 私は、再発が心配となり、カウンターの女性に、事件の顛末を社長に報告するように告げ山荘を後にした。


・下山 8:41

一般には、下りは早い。

今回は、Nさんのお蔭で、ゆっくり下山となった。 写真を撮る余裕もある、振り向くと楽しい思い出となった燕山荘が別れを告げる。


・有明山 9:16

安曇野のでは、信濃富士と呼ぶ、

平野部から見ると尖っているが燕岳側から見ると鞍型だ。



・超健脚氏 9:25

下山開始から1時間ほどの地点で、超健脚氏(山Friend、左から2人目)が登ってきた。

実は、彼も一緒に登る予定であったが、天候を考慮して出発を一日早めたため、旅行中の彼を置き去りにして来た。

その彼が、日帰り登山を計画し、実行したのだ、我々は、びっくり仰天であった。

・リンドウ 9:30

のんびり下山も面白い。

Nさんの足は疲れても口は疲れないことに気付いた。登りで気づかなかった花々も楽しめた。



・スイカブレーク・合戦小屋 9:42

下山開始から1時間23分が経過した。

かなり遅れているが急ぐことはない。燕山荘の社長は、下山はゆっくり歩けと何度も話した。

日本一のスイカをここで食べれば、世界一おいしいのだ、



・赤い木の実 10:35

赤い実は、ナナカマドだけではない、数種類もの赤い実に気付く、

登りにあった実が、下山ではないという。 いくら探してもないので、鳥が食べたことになった。



・下山記念・ 13:24

同行メンバーの協力のお蔭で、懸案の燕岳登山を楽しく、無事になしとげた。

一行は、早速Voxyから温泉道具を取り出し、中房温泉お奨めの外湯(700円)で足をもみ汗を流した。 湯から出ると、目の前に 超健脚氏が立っていた。続きは末尾の《取材メモ》へ、

このたびの山旅では、多くの方々のお世話になりました、ありがとう。





《取材メモ》
少年の頃のかすかな記憶に中に、何故か”燕岳に登る”紀行文が浮かぶ。
今年の夏は、燕岳 と決め、早々に計画を立て、 Friendを誘い準備した。しかし、天候不順で延び延びとなり8月末の決行となった。 結果は、報告の通りですが、取材中に気付いたことを以下に記す。

@中房温泉(一軒宿の秘湯)
江戸時代から秘湯で有名、内湯4、 外湯9、 温泉プール、地熱砂浴場、地熱サウナ、焼山に地熱蒸し焼き場などを備える。 先々代、(戦時中、国の温泉地接収に対し訴訟し勝訴)、先代、の女将の胸像が建つ、

前日、フロントへ電話予約を入れ出かける、到着すると、P入り口の番人は予約名簿にないという、訳を話しフロントへ、 フロントも宿泊予定にないという、昨日電話を受けたのは誰かと尋ねる、フロントマンは、ボンボン(社長)といい、あれはだめだ、 すぐ忘れるといった。次回からは、相手を確認しよう。フロントマンは、直接言えないので、ここに書き留める。

A燕山荘
泊まってみたい山小屋No.1だけあって、設備も、食事もよく、従業員も、社長も親切で、好感が持てた。 山小屋というより、高原の素敵なロッジと思えた。 しかも、2704mの天空の宿である。山ガール憧れの山小屋と思う。

B松本の小学校での燕岳登山(昭和17年6月)
 この度の山旅で、安曇野生まれの映画監督の 熊井哲氏が、小学校6年生の時に燕岳登山を体験したことを知る。
彼は、燕山荘2代目社長の赤沼淳夫氏(1923年生まれ)の写真集 ・燕岳と安曇野 -- 信州光彩 -- の序文で、燕岳登山の半世紀後の思い出を綴っている。

 『 昭和12年に私が入学した松本の小学校では、毎年2、3回ずつ遠足・登山の行事があった。 低学年の頃は近郊の玄向寺とか千鹿頭の池、飯田松原だったが、学年が進むにつれ光城山、袴腰、美ヶ原と遠距離へ行くようになった。
 そうした中で特に忘れられないのは6年生のときのことである。 今では、こんな登山など考えられないだろうが、私たちは海抜2763メートルの北アルプスの雄峰、燕岳に登った。

 昭和17年6月23日、午前5時半松本発の電車で有明駅に着き、中房温泉まで20キロの道を歩いて行った。 翌日は、温泉の付近で記念写真を撮ったりして寛ぎ、夕食後仮眠すると、午前2時に燕岳めざして出発した。 登山道へ差しかかると、後はもう漆黒の闇、各自手にした懐中電灯のか細い光だけを頼りに登り続けた。

 数時間後そろそろ頂上という頃になると、はや東の空は白み始めていた。私たちは強行軍に疲労困憊し、めっきり口数も少なくなっていた。 しかし、先導の先生は全くその歩みを緩めそうにない。ようやく頂上に着いたときは、大半が立っているのがやっと、という有様であった。

 やがて、周囲に朝の気配が立ち込め、雲海の彼方が金色に輝き始めた。そして、私は身じろぎひとつ出来ないくらいの衝撃が、全身を流れる のを感じた。信じられないくらい真っ赤な太陽であった。私たちはその光の中で惚けたように立ち尽くし、疲れも忘れて荘厳な一日の始まりを 見つめ続けていた。子供の私には、なぜ胸がこのように高鳴り、全身の血が熱くたぎるのか分かる筈はなかった。 瞬きひとつすることも出来ぬまま、まるで念仏のように『また来よう、きっと来よう』と呟き続けているばかりであった。

 翌18年、私は松本中学校に入学し、夏、ふたたび燕岳の頂にたった。この日も素晴らしい眺望であった。 そして、私たち人間にとって自然とは、掛け替えのないものであり、自然の懐に抱かれてこそ人間は人間たりうることを 再度教えられたのである。・・・ 』

C超健脚氏71歳の燕岳登山
 彼は、我々が下山する日の午前3時に豊田市の自宅を車で出発し、7時頃から登り始め、山頂を極め、午後2時に下山した。
 ・超健脚氏所要時:往復7時間(彼は、毎日30000歩以上歩くスーパーマン)
 ・我々の所要時間:登り7時間、下り5時間30分で、合計12時間30分
 ・我々の入山から、下山までの総所要時間:26時間48分

《JA2TKO山川柳》

”つばくろで、足疲れても、口うごく ” ・・・ アルプス初登山のNさん

《燕岳登山関連サイト》
@ 燕山荘

A 燕山荘・ Wikipedia

B 燕山荘二代目社長・赤沼淳夫氏の半生

C 中房温泉

D JA2TKO山紀行




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